COLUMN

コラム

自分ごととしての認知症へ

受信者 高山進(仮名)さん、68歳、1人

高山さん 「検査結果はどうでしたか?」
「血液検査は問題ありません。次にMRI画像。ここが海馬、記憶の入り口の役割がありますが、以前より痩せています。質問形式の神経心理検査も受けてもらいましたが、記憶する機能が同世代に較べ低下しています。高山さんの教育歴を踏まえて、画像やその他の所見から考えますと、アルツハイマー型認知症と診断されます。」
高山さん 「(神妙な面持ちで)そうですか。わかりました。」
「早口で説明しましたが、文字にして後日紙でお渡しします。説明について忘れても心配いりません。」
高山さん 「(小声で)そうですが。ありがとうございます。」

高山さんは目を下に向け、口を真一文字に結び、悲しんでいる様な、戸惑っている様な顔で表情は強張り、沈黙が続きます。ふと意を決したかの様に、

高山さん 「これ以上悪化しない手はありますか。世間では認知症予防って色々言っています。」

逆に私が戸惑い、「んー」、言葉にならない言葉を発してしましました。

「色々なアプリがあります。脳トレを進める人もいます。運動はいいという人は多いです。海外では『心臓にいいことは脳にいい』と言われます。しかし薬も含めて全て、元に戻したり、 進行を止める効果は望めません。」

どの専門医も納得する確実な証拠のあるものは薬ですが、認知機能は低下します。いわんや他のものをや。

「年を取れば、皴が増え、白髪が増え、筋肉が衰えますが、それで絶望の淵に追いやられることはないでしょう。衰えの一部かもしれません。」

高山さんは真剣に聞いている。そもそも、認知症が心配だから来院されたはず。でも病名を知り、深いショックを抱えてしまいました。
どんな慰めも役に立ちません。高山さんの顔の厳しさは変わらない。

認知症に対するイメージ

認知症に対するイメージ

高山さんは真剣に聞いている。そもそも、認知症が心配だから来院されたはず。でも病名を知り、深いショックを抱えてしまいました。
どんな慰めも役に立ちません。高山さんの顔の厳しさは変わらない。

認知症のイメージを問われると、ある程度同じイメージを持ちます。身内の認知症、TV・新聞の認知症、講演会の認知症、茶飲み話の認知症、様々な「認知症」から形作られます。 このイメージ、ある程度共通している。この共通項が、認知症を取り巻く文化の形です。 「認知症になるならガンの方が良かった」「認知症は社会のお荷物」という言葉を聞いたことがあり、そういうイメージを持つ方が多いのかもしれません。

「認知症になったらオシマイ」というのも耳にします。オシマイってなんでしょうか。認知症は命を奪うものではありません。高山さんの表情の裏にあるもの。 高山さんが持つ認知症のイメージがあり、その認知症になったのです。人生にかかる暗雲の意識が、その表情の裏にあります。

「認知症を止める手段はありませんが、命は続きます。苦しかったり、悲しくなったら、いつでも来てください。クリニックで月1回、認知症の人の寄り合いがあり、お互いの体験を交換し合います。気持ちが向けばおいでください。」

その後、薬の話をします。副作用、期待できる効果、効果を客観的に測る方法など。説明の後、飲む飲まないを決めてもらいます。医療側は説明を尽くし本院が決める。
他の医療では当たり前ですが、認知症医療では私も含め、しっかり向き合ってきませんでした。自戒を込めて、本人に尋ねています。

「薬を飲む飲まないはご自身でお決めください。即決しなくても結構です。飲む飲まないに関わらず、お付き合いは続けましょう。」

認知症になっていい、まちづくり

認知症に対するイメージ

認知症の人は五百万、軽度認知障害を合わせると一千万を超える、そういう国に私達は住んでいます。
医療技術の発達を願うことも大切です。同時に認知症の人々、将来認知症になる私を含む人々のために確実なのは、認知症を取り巻く文化を変えること。
「認知症になって『も』『安心できる』まちづくり」、という標語を最近見かけます。この『も』と『安心できる』に妥協を感じます。認知症を人ごとの視点で捉える感触があります。
いっそこれを取りましょう。
「認知症になっていい、まちづくり」。決意の厚みが変わりました。そこに向け我々は漕ぎ出さねばなりません。自ら動かなければ「自分ごととしての認知症の時代」にならないと思うのです。